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そわか式幸福論

庄兵衛はただ漠然ばくぜんと、人の一生というような事を思ってみた。人は身に病があると、この病がなかったらと思う。その日その日の食がないと、食ってゆかれたらと思う。万一の時に備えるたくわえがないと、少しでもたくわえがあったらと思う。たくわえがあっても、またそのたくわえがもっと多かったらと思う。かくのごとくに先から先へと考えてみれば、人はどこまで行って踏み止まることができるものやらわからない。それを今目の前で踏み止まって見せてくれるのがこの喜助だと、庄兵衛は気がついた。(高瀬舟 

  最初にお断りしておくが私は偉い人間ではない。だから幸福論なんて偉そうに講釈垂れるにも戦々恐々の思いがする。事実私の幸福論を煎じ詰めれば妥協しろの一言で終わる。なのでそんなの負け惜しみだよとか幸福を婉曲している阿呆だなどの批判ももっともだと思うし反論もできない。それでも良ければ読み進めてください。私はこう考えることで気が楽になったので語っていこうと思う。

 まず、お金に絞って考えていく。多くのひとは自分の経済状況に満足していないと思う。これは当然で、なぜならお金の欲望に際限がないからである。日ごろはユニクロで満足できていたものが、少しグレードを上げるとユニクロのシルエットの粗が気になり始める。そうしてエスカレートして気が付いたら海外高級ブランドのものしか受け付けなくなる。食べ物でもそうである。小さなころは激安の食べ放題で満足できた焼肉でも、少しグレードを上げると以前の激安では満足できなくなる。私の場合イヤホンが特に顕著であった。中学生の頃は付属のイヤホンで満足していたのに扱えるお金の裁量が大きくなるにつれ4000円のものでしか満足できなくなり今では12,000円のイヤホンを使っている始末である。

 踏みとどまろうと思っても案外大変で、例えば他人がロレックスを持っていれば劣等感を感じてしまう。自分が属するコミュニティ内で満足できていても、モデルが着用している服が欲しくなる。

 経済状況から離れて身体的ケースを考えてみる。足がない人は足があればいいのにと思う。足があっても具合が悪ければ健常な足があればと思う。健常の足があってもスポーツ選手の足に憧れる。やはり際限がない。

 つまり私は不幸とは主観的に満足できない状態と定義する。お金がなくても幸福だという人もいる一方で、自転車でも買う如き感覚で戦闘機をお買いになる社長もいる。ろくに使いもしないであろう戦闘機を買う人間が現状に満足できているとは到底思えないのである。実際彼は戦闘機の周りでBBQをしていた。

 幸福は不幸のコインの表側であると考えればおのずと実像が見えてくる。すなわち幸福とは主観的に満足できている状態である。主観的というところがミソである。われわれは中世ヨーロッパ貴族よりよい暮らしを送っている。私たちは胡椒を湯水の如く使えるが彼らにとって香辛料は貴重であった。当然インターネットもない。しかし中世貴族の方が現代の大多数の人間より幸福であろう。幸福の基準は時代によっても異なるのである。

 幸福の定義から幸福になる方法が二つ導き出される。一つは満足度を高めることである。しかしこれは元も子もないだろう。金銭的に不幸であるならば頑張って稼げとしか言いようのない。

 二つ目は満足の基準を下げることである。私が強調したいのはこちらの方である。古代中国で老子は知足という言葉を使った。結局現状に対して足るを知ることが大事なのではないかと思う。しかし基準をあまりに下げすぎるのも健全ではないと思う。自分の無理のない程度で折り合いをつけていけばいいのではないかと思う。

 足るを知る。これこそ私が思う幸福に生きる秘訣である。