沼男(スワンプマン)から探るアイデンティティの拠り所

 昨日の自分は果たして自分なのだろうか。人間は絶えず新陳代謝を繰り返す。古い組織は寿命を迎え、垢や排泄物として体外へ排出される。すると自分の身体は昨日とはわずかに異なるといえるのではないだろうか。昨日とはわずかに異なるが一昨日は?その前は?はたまた一年前は…?幼児の成長を見てみるとさらに顕著だ。子どもは数年の間に身長体重ともに数倍に膨れ上がる。例えばある幼児の写真と、その子の五年後の写真を見比べたときに同一人物であることは間違いないが、全く同一であるとはだれが言えるだろうか。

 さらに思考にも新陳代謝は発生する。新しい考えに触れることで自分の考えがかわることは誰しも経験することである。5年前の自分と比べて自分のいかなる主義主張も変化しなかったといいのける人はいないように思われる。記憶もそうだ。時が経つにつれ新たなことを覚え古いことを忘れてゆく。記憶も考え方も身体の構成要素も異なる過去の自分と今の自分は果たして同じものであるのか。

 アイデンティティの問題を考える際、”スワンプマン”という古典的な思考実験がある。Wikipediaから少し引用してみる。

ある男がハイキングに出かける。道中、この男は不運にも沼のそばで、突然 雷に打たれて死んでしまう。その時、もうひとつ別の雷が、すぐそばの沼へと落ちた。なんという偶然か、この落雷は沼の汚泥と化学反応を引き起こし、死んだ男と全く同一、同質形状の生成物を生み出してしまう。

この落雷によって生まれた新しい存在のことを、スワンプマン(沼男)と言う。スワンプマンは原子レベルで、死ぬ直前の男と全く同一の構造を呈しており、見かけも全く同一である。もちろん脳の状態(落雷によって死んだ男の生前の脳の状態)も完全なるコピーであることから、記憶も知識も全く同一であるように見える[1]。沼を後にしたスワンプマンは、死ぬ直前の男の姿でスタスタと街に帰っていく。そして死んだ男がかつて住んでいた部屋のドアを開け、死んだ男の家族に電話をし、死んだ男が読んでいた本の続きを読みふけりながら、眠りにつく。そして翌朝、死んだ男が通っていた職場へと出勤していく。

出典:スワンプマン - Wikipedia

 

  ここでスワンプマンは前の男と同一人物といえるだろうか。

 

 私は言えないと思う。別人だから。私はアイデンティティを担保するのは連続性だと思う。新陳代謝を通じて”私”は別の存在に変化し続けているが、それは少しずつ行われる。そこには連続性が存在するのである。スワンプマンの場合、連続性が途切れてしまっているのでもはや別人なのではないかと考えている。思考についても同様で、自分の考え方が他人に似通っていようとそこに至るプロセスさえきっちりしていれば思考の同一性は保たれると考える。一貫性より連続性を大事に生きてみてはどうでしょうか。