身体の外延性

 今日スマホがフリーズしてしまった。残るは復旧しか手がないらしかったので復旧作業に移ったわけだが復旧作業中に再起動が起きて難を逃れた。

 以前もスマホの電源を入れることができなくなり、新品と交換しなければならない機会があったが私がその時感じたのは不便さと喪失感であった。不便さというのは無論、SNSの再登録や、自分に合ったカスタマイズのやり直し、果ては再登録に必要なパスワードの再取得などめんどくさいことこの上なかったことを覚えている。スマホを使えない期間も別の意味で不便であった。ただ、それ以上に喪失感を感じた。まず写真をたくさん保存していたのでその写真をもう二度とみれなくなったという事実がさみしかったし、自分なりにこだわりをもって装飾していたスマホがなくなったことにさみしさを覚えた。

 スマホが私の一部だったのではないかとふと思ったのを覚えている。写真保存は外付けの記憶装置とも見ることができるし、インターネットはネットの海を渡るための足でもある。逆に生身の手足はどうであろうか。技術的には外科手術によって手足を取り外すことができるし、義足義手という形で取り付けることだって可能である。脳が望む結果の実現に必要な具を道具だとすると手足も道具である。また、手足も取り外してしまえば肉塊である。手足とスマホは道具としての観点からは本質的な違いは存在しないのではないだろうか。

 幻肢という現象がある。事故などで手足を失ってもなお存在すると錯覚してしまう神経症のことであるが、これは喪失感が作用した例ではないかと考える。するとこの手足がなくなったことの喪失感と私がスマホを失ったことで受けた喪失感(あるいはさみしさ)は本質的に同じものだと思う。不便さも同様である。程度は違えど、当たり前のようにあったものが突然なくなったことで不便に感じるという意味で手足の喪失もスマホの喪失も特に違いがない。するとスマホも触覚がないだけで体の一部ではないだろうか。大きな違いは代替が簡単に用意できる点だと思うが。ともあれ道具が体に取り込まれるという事実はとても興味深いように感じられる。