『沈黙』読解~なぜロドリコはキリストを踏むに至ったか~

 1/21より遠藤周作原作、スコセッシ監督の映画『沈黙』が公開されました。初めて『沈黙』を読んで衝撃を受け、以来遠藤先生の作品群は数ある小説の中でも私にとって特別な意味を持つようになりました。

 そんな私なので映画を初日に見に行きました。映画の感想等はいずれ機会があれば。あれほど好きな作品でありましたが映像化されたものをみると新たな発見があっておもしろいですね。

 しかし、ロドリコが踏み絵をするに至った気持ちは共感できるが、どうにも腑に落ちなかったのが初見での感想でした。

 この記事では、私なりにロドリコの心情(信条)の変化を小説から拾い上げてまとめていこうと思います。

 まず前提として知っておいておかなければならないのはキリスト者にとっての棄教が意味するところです。時は中世末期、キリスト教の価値観が多大に重きを置かれた時代です。島原の乱は1637年に発生していますが、同時期のヨーロッパに目を向けるとガリレオガリレイが地動説を固持し、異端尋問にかけられている時期です。この尋問の世界史的意義としては、科学が宗教という蒙昧を啓し始めたその萌芽の現れと見ることもできますが、裏を見てみるとまだ宗教(キリスト)>>>科学という価値観の力関係が維持されている証拠とも見ることができます。宗教の考えが今よりもはるかに強烈であることが見て取れます。さて、キリスト教の考えでは、キリスト者ではない異教徒は神からの罪の許しを得ることができず最後の審判によって地獄へ落されてしまいます。キリスト者にとっての信仰の目的は最後の審判で神の許しを得ることによって天国へ昇ることにあります。また、現世での苦難は神からの試練であると考えられていました。これらを総合して勘案すると以下のように整理することができます。つまり、真のキリスト者なら棄教するという選択はあり得ないことで、責め苦の末死ぬことは神からの試練であるので甘受しなければならない、と。だからこそロドリコたちは、自分の師であり敬虔なキリスト者でもあるフェレイラ師が棄教したという事実に驚愕します。死亡や行方不明になったのならここまで動揺はしなかったでしょう。なぜなら棄教したのであれば最後の審判で地獄に堕ちる運命にあるというのがキリスト者の考えだからです。またここに至って初めて棄教の意味を探ることができます。すなわち棄教とは信者にとって、(キリスト教的な意味での)神の存在の否定に他ならないのです。これは『沈黙』を読むに当たって絶対外せない前提です。ただ拷問による精神的肉体的疲弊とは次元が異なるのです。もちろんこのような疲弊によって棄教を受け入れた信者もいたでしょうが、教父であるフェレイラ師と司祭ロドリコに関してそれはあり得ません。彼らが棄教するときは神を棄てるときなのです。

  さて、早速ですが、第八章、242頁から読み進めていきましょう。ここまでの間、すなわちマニラ出発から自分が拷問を受けさせられるまでの間にロドリコは(肉体的拷問はなかったものの)肉体的にも精神的にもすでに限界に近い状態を迎えます。しかし自分の死を間近に控えて逆説的な現象が起こります。死を明確に意識し、受け入れたことで心にゆとりが生まれるのです。ロドリコは奉行所(すなわち拷問が行われる場所)へ向かう自分と磔刑のためドロローサへの道を歩む基督とを重ね合わせます。野次馬に馬糞や石を投げつけられ嘲笑される自分と、同じく苦痛に顔をゆがめ、(ユダヤでない)異教徒と蔑まれながら、刑具である十字架を背負い、刑場のゴルゴダの丘へ上がる自分。そのゆとりはやはり部屋へ押入れられても続きます。前の宣教師の残したLAUDATE EUM(讃えよ、主を)という言葉により、一層奮起し、聞こえてくる"鼾"から、その声の主を推察するほど余裕を持っています。彼のみたてによるとその主は"他人の辛さを感じない肥えた残忍な番人"ということです。そのような残忍さは普遍的で、彼の出身であるポルトガルにも存在したし、”人間の夢の中で最も美しいものと善いものの結晶であるあの人を殺戮した”のもこの種の人間であると断じています。やはりここでも基督と自分を重ね合わせているのでしょう。自分こそが”あの人”と同じように苦しんでいるとヒロイズム浸っていたからこそ、このようなゆとりを持つことができたのです。

 しかし、フェレイラとの対話が始まり、ロドリコは自分を失ってしまいます。決定的な分岐点は”鼾”の正体は穴吊りされた切支丹の呻き声であるとフェレイラに告げられた場面です。自分こそ”あの人”と同じように苦しんでいたという思いをもっていたが(本文では傲慢という言葉が使われている)、実はすぐ隣で自分よりもっとキリストのために苦しんでいる信者がいた 。彼らの苦しみを引き受けることこそ司祭たる自分の役目、しかし、あろうことか”鼾”が滑稽であり、鼻で笑いさえしたのです。

 信者が神のために拷問に苦しみ、司祭たるロドリコが自失したこの瞬間に至っても神は沈黙を貫きます。

 また、まさにこの沈黙こそ棄教を決意したきっかけになったとフェレイラは語ります。結局フェレイラは神の存在を信じることができなかったのです。それは祈っても祈っても神が沈黙を貫き通したからにほかなりません。

 さらにフェレイラの説得は続きます。拷問にかけられているに信者対して「あの人たちは、地上の苦しみの代わりに永遠の悦びをえるでしょう」と語りますがフェレイラは見事にその発言の欺瞞を暴きます。その発言は美しく自分の弱さを誤魔化したに過ぎないといいます。ここでの弱さについては考察の余地があります。ロドリコの弱さとは何なのでしょう。ここの文脈での弱さに対応する強さとは何なのでしょう。弱さとは、自分の救いを大切にするあまり、棄教を拒絶し、信者を見殺しにしてしまうことにほかなりません。”彼等(拷問にかけられている信者)より自分が大事”と考えることこそここの文脈での弱さなのです。

 逆に強さとは、自分より信者を大切にすること、自分が救われなくても信者を救うことであり、それは基督が示した生き方に他ならないのです。「そんなことはない」とロドリコは声を引き絞りますがもはや自信と自己を見失っています。

 この後、基督を踏むシーンへと転換するのですが、足取りについては”思い鉛の足かせをつけられたように”とありますが、どのように自分で納得し歩みだしたかの記述はありません。こここそ初見であまり私が納得できなかった理由であり、遠藤先生が読者に託した部分であると考えています。

 結局ここに至っても明快な解答を得ることができませんでした。なのでここからは私の感性を頼りに進めていきたいと思います。

 まず、考察の材料をまとめてみましょう

  • 肉体的・精神的疲弊、飢餓
  • 神の沈黙
  • 基督への憧憬
  • 自己矛盾への気づき
  • 傲慢からの転換
  • キリスト者がもつ棄教の意味

 

以上から以下のような心の動きを説明できるのではないでしょうか。

 まず、司祭として期待していたことは神が沈黙を破ることです。例えば雷が落ちて拷問者を皆殺しにしてしまえば晴れて信者は自由の身です。そもそもバテレン追放令がでるという結果に帰結すること自体神の考えに反します。しかし、あろうことか信者が拷問にかけられても神からの救いが舞い降りる気配はまったくありません。神の沈黙、この事実が司祭の信仰に影を落とします。(影を落とすどころかフェレイラはこの沈黙が踏み絵への踏ん切りになったと語っています)

 次にロドリコ自身の傲慢、そこからの転落によって精神が混乱してしまったことも原因にあげられるでしょう。死を受け入れ、みずからを基督と重ね合わせていた彼ですが、それは同時に司祭であることの矜持でもあったのでしょう。しかし、隣で自分より苦しんでいる信者がいて、自分は彼らに祈りをささげることもしなかった。ここで矜持を保つことができなかったのでしょう。彼の矜持とは司祭であることと同時に基督と同じ運命にあっているという認識であり、これは彼の人生そのものであります。みずからのプライドすらも踏みにじられて彼の精神は動揺してしまいます。

 飢餓や疲弊、そして自己喪失、ここに及んでなお彼は基督にすがりたかったのではないでしょうか。神は沈黙し、司祭としての役目は果たせず人生すらも否定されすべてを失った彼の中で、基督への憧憬だけが残っていたのではないでしょうか。経典を重んじるか、基督の生き方を大事にするかの二択に迫られロドリコは後者を選んだのではないでしょうか。ロドリコは否定しましたが、私は基督ならば信者のために絵を踏んだと思います。いや、ロドリコにもそのことが分かっていたのでしょう。結局基督との同化に至ったという傲慢から抜け出した後でもやはり基督のように生きたいと思ったのではないかと考えます。そう考えると彼の行動は一貫しています。すなわち基督の生き方を踏襲することこそ彼の生き方であり、それが拭いがたく、あの場面で彼に指針を示したのだと思います。