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トルーマンカポーティ『冷血』を読んで

 たったいまこの本を読んだわけだが、得られたのは読破したという達成感だけでした。というのもこの小説、600頁超に及ぶ上に行間はぎちぎち、文字は小さめ、そしてなにより無味乾燥な小説であったので読み進めるのに苦痛を強いられた。私は小説を読むことは歩く行為に似ていると考えている。エンターテイメント性の高い小説 (例えば私も大ファンの森見先生の小説)なら散歩と同じような気晴らし、爽快感を得ることができると思う。その例でいくと『冷血』は400m走を走らされている気分になる。一日50頁を超えたあたりで先を読み進めることが億劫になり、次の日に先延ばししてしまう。ゆえに読破するのに10日近くかかってしまったのである。

 

 この本を読み進めることが困難な理由はひとえに内容の無味乾燥さを上げることができる。ここで小説裏表紙のあらすじを引用してみる。

カンザス州の片田舎で起きた一家4人惨殺事件。被害者は皆ロープで縛られ、至近距離から散弾銃で射殺されていた。このあまりにも惨い犯行に、著者は5年余りの歳月を費やして綿密な取材を遂行。そして犯人2名が絞首刑に処せられるまでを見届けた。捜査の手法、犯罪者の心理、死刑制度の是非、そして取材者のモラル――。様々な物議をかもした、衝撃のノンフィクション・ノヴェル。

  ご覧のとおり一家惨殺事件のドキュメントという体裁を保っている。この事件は確かにむごたらしいものではあるが、この事件がきっかけで法改正がなされたとか、一般市民の何かに対する意識が変わったというものではない。カポーティが取り上げなければ事件の関係者を除いていずれ忘れ去られていたであろう。もし歴史の教科書風に取り上げるなら「裕農一家が殺人強盗にあい、その罪で二人の男が逮捕され死刑に処された。」といったところであろうか。

 だが、この本ではこの事件に直接かかわったもの、関係者の生涯から家族の生い立ちまでとことん追求されている。例えば容疑者のひとりであるヒコックはおおむね家族愛に恵まれた家庭で育ったことが記述されているし、相対をなすもう一方の容疑者のペリーは小さなころから家庭内暴力にさらされ、墜死、殺害、自殺など一家は不幸な目にあっていることも書かれている。被害者はもちろん、被害者と仲の良かった隣人、果ては調査官の生い立ちまで詳細に触れている。

 この過剰といっても過言でなさそうな記述、さらに(たぶん意図的であろうが)漠然とした書きっぷりのせいで600頁という膨大な量にに加え、砂漠を歩くような苦行を読者に強いる書物として形成されたのだろうと私は推察する。

 だが、このような無名で終わっていても不思議ではない事件でもそこにかかわる人がいる限り、一人ひとりのドラマがあることを感じさせてくれる。私がわざわざブログという形でしたため記述しようと思ったことはまさにそこなのである。さきほどから苦行という言葉を連発しているが、何人もの人間ドラマを記述してあるので苦行でしかるべきなのである。なぜならそれは彼らの人生の重さであるからだ。もともとカポーティはフィクション (虚構)作家である。彼の手腕をもってすればノンフィクションの中にフィクション(虚構)を織り交ぜることでより読みやすい、娯楽性を兼ね備えた小説を書くことができたであろう。だがその手法はとられず、この400mのトラックが完成したのである(もちろん私が気が付かないだけでレトリックの類がふんだんに使われていたであろうが、それは本書を読みやすくする意図はなかったであろう)。

 日本でも、毎年多くの事件が起きては、客観的事実だけを残し(おそらく判例集の片隅にちょろっと記述されるだけ)、関係者の血の温かみは忘却へと消えていく。いや、それは日本に限る話でも現代に限る話でもない。出来事とは因果の帰結であり、その結果には忘却された人間ドラマがある。今日すれ違う何百人の人にも人生があり、重みがある。私にその当たり前の事実を認識させてくれたのがこの本である。

 小説を息抜きのために読む人にはこの本をお勧めできない。どんでん返しを望む人にも同様だ。だが、それでも400m走を走りたいと思える人は休み休みでもいいから挑戦してみてほしい。