類似性と同一性

 大学入試の題材となる国語の文章は総じて良作であることが多い。特にセンター試験の小説は素晴らしいと思う。表面を掬うのみでは勘違いを生み、その勘違いのせいで総崩れで点数を落とすことを経験した受験者も多いだろう。何を隠そう私にも覚えがある。20分程度で主題や心情を正確に把握し、正確に解答することは世間から思われているよりはるかに難しいと思う。

 閑話休題。今日はそんな入試の国語から印象に残った評論文について書いていこうと思う。問題を解いたのはだいぶ前のことであるので出典はおろか問題が出された大学すらも思い出せないが、以下のような内容であったと記憶している。

 ”同じ”という言葉には実はふたつの意味がある。これを殺人事件で使われた凶器のナイフを例にとって考える。調査の結果そのナイフは近所のホームセンターで購入されたものであると判明したとする。ここで問題なのだが、ホームセンターで同じナイフを入手することはできるだろうか。YesともNoともいえる。Yesの意味としては同じ型のナイフの在庫を問い合わせれば同じナイフを手にすることは道理である。一方殺人に使われたナイフはこの世で一本しかないわけで、ホームセンターで入手することは不可能である。この問いによって”同じ”という言葉のもつ二面性が鮮やかに浮かび上がってくる。それが本記事の題名にもなっている類似性と同一性という問題である。ナイフの例では前者が類似性、後者が同一性に相当する。

 だからどうした、と思われるかもしれないが、これがなかなかの問題なのである。その文章ではクローンの例が出されていた。自分が大事にしていたペットが死に、死骸の細胞を用いてクローンを生成できるとしよう。そうして生まれた犬は果たして前の犬と同じなのであろうか。ここまで読み進めてきた方ならもうお分かりであろう。つまり、類似性の観点からは全く同じであるが、同一性の意味では全く別物である。また、クローン犬を同一性の意味で同じに扱うことはどちらの犬の尊厳を傷つけていることになるのではないか。ここで犬ではなく愛する恋人であるケースだとどうだろうか。同じものを期待してクローンを生成することは亡くなった恋人への冒涜である。さらに、クローンに限らず例えば前の恋人と似ている人を求める行為は、本人の中では同一性を満たしているつもりかもしれないが結局は類似なものにすぎないのである。

 同一性と類似性の話からはさまざまな示唆を引き出すことができるが、特に私の場合は他人に(全く異なる第三者と)似ているから付き合う、似てないから付き合わないという考えを意識して排除するようになった。結局人がその人たる構成要素(アイデンティティ)があるとして、似る似てないという問題は、その構成要素の一部分を拡大解釈してあてはめ、他の要素を排除しているだけではないのだろうか。排除された要素こそ、その人のアイデンティティの根幹を担っているのではないだろうか。そのように考えると最早類似同一の問題を超えて、他人を認識するという問題にも関わっていることに気が付く。自分は、相対する人の一面しか見ておらず、本当の彼(彼女)を知らないのではないか。云々…

 5年近くも前に30分だけ接した文章が未だに私に示唆を与えてくれる。

 

 

 

 

現代のシンクロニティ~終末時計が大幅に進んだので~

世界恐慌・・・1929年

ブロック経済・・・1930年代

日本、国際連盟を脱退・・・1933年

ヒトラー、総統に就任・・・1934年

ヒトラーのみならず、各国で過激派の人物が次々と国家の権力を掌握する。

第二次世界大戦勃発・・・1939年

 

リーマンショック・・・2008年

英国EU離脱・・・2016年

ドナルドトランプ、大統領に就任・・・2017年

トランプのみならず、各国で過激派の人物が次々と国のトップへ踊り出る。

 

 このように並べてみると歴史は繰り返されるという言葉が一番しっくりくると感じる。メカニズムは以下のように推察できよう。まず、なんらかのきっかけで一気に景気が悪くなる。景気(株価)は厄介なもので、よくなる時はじわじわとした動きに対して、落ちるときは一気に落ちる。景気がどん底に落ち込むと、国民は原因を求める。その一つには海外に自分たちの富が吸い取られる故の不景気なのだと、海外にやり玉があげられる。確かに直感的には正しそうに感じられるかもしれないが、これは誤りで、貿易によっては相国間の得になるので、他国との貿易を制限すると結局自分の首を絞める結果になるのである。暮らしが悪くなると、穏健派の現政府に鬱憤が溜まる。結局何もしてない(ように見える)トップが無能なのではないかと。そこで、もっともらしい政策を腕力で押し通すことができる過激な人物の人気が高まる。現状が悪いのであるから、何かしらのアクションが起きれば何かが変わるのではないかと期待する。しかし、結局はかき回すだけで暮らし向きはよくならない。そこで原因をやっぱり他国に求める。そして戦争が起きる。

 

多少強引な論な気もするが、現状を説明する一つの筋は立っているように感じるがいかがだろうか。

経済学的な正しさについて

 経済学者がいってはいけない禁句として”経済学的に正しい”という文句があります。

 なぜいってはいけないのでしょうか。

 まず、経済学的に正しいことが正しいとは限らないことです。これは数学に置き換えれば簡単で、1+1=2は数学的であろうとなかろうと正しいことは正しいのです。つまり、経済学的に正しいという文句の裏には、別の視点からは正しくないと自白するようなものだからです。なぜなら全面的に正しいと確信が持てるのであれば”経済学的に”なんて枕詞必要ないからです。例えば生産性の皆無なものを切り捨てることは経済的には正しいかもしれませんが、法律的、そして倫理的には正しくありませんし、大多数の人は枕詞つけることなしに正しくないと答えるでしょう。経済学的に正しいからこの政策を進めるべきだなんていう論客をたまに見かけますが、彼らはそれが経済学的に正しい=正しいと認識している阿呆か欺瞞に気づいてなお自分の意見を通そうとする卑怯者にほかなりません。

 つぎに、経済学は政策の正しさまで担保しないからです。つまり事実究明しかしないのです。自由貿易を例にとってみましょう。自由貿易を行うことで、輸入国の生産者は損をし、消費者は得をするが、消費者の得の増分は生産者の損の増分を上回るという事実は学部生レベルのミクロ経済学のどの教科書にも記載されてある有名な帰結です。それでは自由貿易をするべきなのでしょうか。YesともNoとも言えます。消費者は輸入することで格安の財を得ることができるという主張も正しいですし、輸入の増大によって生産者は過酷な競争を強いられるという主張も正しいからです。また、経済学があてにならないという言説もこのぶれにあるように感じます。少しいい加減にはなりますが、当時の流行によってこの”正しさ”というものが大きくぶれるからです。経済学は冷酷なもので正確な論の種を与えてくれますが、絶対的な正しさは保証してくれません。それを流用して自分の論を展開する論客には気をつけてください。

 

落ち穂拾い

  • ブログ等で”経済学的に正しい”という言葉の危険性を指摘されている方を何人か知っています。しかもみなさんとても優秀な方です。
  • 教科書的には自由貿易のあり方についてはこう結論付けられることが多いです。消費者の得分を生産者の損分に所得移転することができればみんなが損をしない状況を生み出せると(みんなが損をせず、誰かが得をする状況をパレート効率的などということがあり、経済学の指針としてよく用いられます)。

 

 

『沈黙』読解~なぜロドリコはキリストを踏むに至ったか~

 1/21より遠藤周作原作、スコセッシ監督の映画『沈黙』が公開されました。初めて『沈黙』を読んで衝撃を受け、以来遠藤先生の作品群は数ある小説の中でも私にとって特別な意味を持つようになりました。

 そんな私なので映画を初日に見に行きました。映画の感想等はいずれ機会があれば。あれほど好きな作品でありましたが映像化されたものをみると新たな発見があっておもしろいですね。

 しかし、ロドリコが踏み絵をするに至った気持ちは共感できるが、どうにも腑に落ちなかったのが初見での感想でした。

 この記事では、私なりにロドリコの心情(信条)の変化を小説から拾い上げてまとめていこうと思います。

 まず前提として知っておいておかなければならないのはキリスト者にとっての棄教が意味するところです。時は中世末期、キリスト教の価値観が多大に重きを置かれた時代です。島原の乱は1637年に発生していますが、同時期のヨーロッパに目を向けるとガリレオガリレイが地動説を固持し、異端尋問にかけられている時期です。この尋問の世界史的意義としては、科学が宗教という蒙昧を啓し始めたその萌芽の現れと見ることもできますが、裏を見てみるとまだ宗教(キリスト)>>>科学という価値観の力関係が維持されている証拠とも見ることができます。宗教の考えが今よりもはるかに強烈であることが見て取れます。さて、キリスト教の考えでは、キリスト者ではない異教徒は神からの罪の許しを得ることができず最後の審判によって地獄へ落されてしまいます。キリスト者にとっての信仰の目的は最後の審判で神の許しを得ることによって天国へ昇ることにあります。また、現世での苦難は神からの試練であると考えられていました。これらを総合して勘案すると以下のように整理することができます。つまり、真のキリスト者なら棄教するという選択はあり得ないことで、責め苦の末死ぬことは神からの試練であるので甘受しなければならない、と。だからこそロドリコたちは、自分の師であり敬虔なキリスト者でもあるフェレイラ師が棄教したという事実に驚愕します。死亡や行方不明になったのならここまで動揺はしなかったでしょう。なぜなら棄教したのであれば最後の審判で地獄に堕ちる運命にあるというのがキリスト者の考えだからです。またここに至って初めて棄教の意味を探ることができます。すなわち棄教とは信者にとって、(キリスト教的な意味での)神の存在の否定に他ならないのです。これは『沈黙』を読むに当たって絶対外せない前提です。ただ拷問による精神的肉体的疲弊とは次元が異なるのです。もちろんこのような疲弊によって棄教を受け入れた信者もいたでしょうが、教父であるフェレイラ師と司祭ロドリコに関してそれはあり得ません。彼らが棄教するときは神を棄てるときなのです。

  さて、早速ですが、第八章、242頁から読み進めていきましょう。ここまでの間、すなわちマニラ出発から自分が拷問を受けさせられるまでの間にロドリコは(肉体的拷問はなかったものの)肉体的にも精神的にもすでに限界に近い状態を迎えます。しかし自分の死を間近に控えて逆説的な現象が起こります。死を明確に意識し、受け入れたことで心にゆとりが生まれるのです。ロドリコは奉行所(すなわち拷問が行われる場所)へ向かう自分と磔刑のためドロローサへの道を歩む基督とを重ね合わせます。野次馬に馬糞や石を投げつけられ嘲笑される自分と、同じく苦痛に顔をゆがめ、(ユダヤでない)異教徒と蔑まれながら、刑具である十字架を背負い、刑場のゴルゴダの丘へ上がる自分。そのゆとりはやはり部屋へ押入れられても続きます。前の宣教師の残したLAUDATE EUM(讃えよ、主を)という言葉により、一層奮起し、聞こえてくる"鼾"から、その声の主を推察するほど余裕を持っています。彼のみたてによるとその主は"他人の辛さを感じない肥えた残忍な番人"ということです。そのような残忍さは普遍的で、彼の出身であるポルトガルにも存在したし、”人間の夢の中で最も美しいものと善いものの結晶であるあの人を殺戮した”のもこの種の人間であると断じています。やはりここでも基督と自分を重ね合わせているのでしょう。自分こそが”あの人”と同じように苦しんでいるとヒロイズム浸っていたからこそ、このようなゆとりを持つことができたのです。

 しかし、フェレイラとの対話が始まり、ロドリコは自分を失ってしまいます。決定的な分岐点は”鼾”の正体は穴吊りされた切支丹の呻き声であるとフェレイラに告げられた場面です。自分こそ”あの人”と同じように苦しんでいたという思いをもっていたが(本文では傲慢という言葉が使われている)、実はすぐ隣で自分よりもっとキリストのために苦しんでいる信者がいた 。彼らの苦しみを引き受けることこそ司祭たる自分の役目、しかし、あろうことか”鼾”が滑稽であり、鼻で笑いさえしたのです。

 信者が神のために拷問に苦しみ、司祭たるロドリコが自失したこの瞬間に至っても神は沈黙を貫きます。

 また、まさにこの沈黙こそ棄教を決意したきっかけになったとフェレイラは語ります。結局フェレイラは神の存在を信じることができなかったのです。それは祈っても祈っても神が沈黙を貫き通したからにほかなりません。

 さらにフェレイラの説得は続きます。拷問にかけられているに信者対して「あの人たちは、地上の苦しみの代わりに永遠の悦びをえるでしょう」と語りますがフェレイラは見事にその発言の欺瞞を暴きます。その発言は美しく自分の弱さを誤魔化したに過ぎないといいます。ここでの弱さについては考察の余地があります。ロドリコの弱さとは何なのでしょう。ここの文脈での弱さに対応する強さとは何なのでしょう。弱さとは、自分の救いを大切にするあまり、棄教を拒絶し、信者を見殺しにしてしまうことにほかなりません。”彼等(拷問にかけられている信者)より自分が大事”と考えることこそここの文脈での弱さなのです。

 逆に強さとは、自分より信者を大切にすること、自分が救われなくても信者を救うことであり、それは基督が示した生き方に他ならないのです。「そんなことはない」とロドリコは声を引き絞りますがもはや自信と自己を見失っています。

 この後、基督を踏むシーンへと転換するのですが、足取りについては”思い鉛の足かせをつけられたように”とありますが、どのように自分で納得し歩みだしたかの記述はありません。こここそ初見であまり私が納得できなかった理由であり、遠藤先生が読者に託した部分であると考えています。

 結局ここに至っても明快な解答を得ることができませんでした。なのでここからは私の感性を頼りに進めていきたいと思います。

 まず、考察の材料をまとめてみましょう

  • 肉体的・精神的疲弊、飢餓
  • 神の沈黙
  • 基督への憧憬
  • 自己矛盾への気づき
  • 傲慢からの転換
  • キリスト者がもつ棄教の意味

 

以上から以下のような心の動きを説明できるのではないでしょうか。

 まず、司祭として期待していたことは神が沈黙を破ることです。例えば雷が落ちて拷問者を皆殺しにしてしまえば晴れて信者は自由の身です。そもそもバテレン追放令がでるという結果に帰結すること自体神の考えに反します。しかし、あろうことか信者が拷問にかけられても神からの救いが舞い降りる気配はまったくありません。神の沈黙、この事実が司祭の信仰に影を落とします。(影を落とすどころかフェレイラはこの沈黙が踏み絵への踏ん切りになったと語っています)

 次にロドリコ自身の傲慢、そこからの転落によって精神が混乱してしまったことも原因にあげられるでしょう。死を受け入れ、みずからを基督と重ね合わせていた彼ですが、それは同時に司祭であることの矜持でもあったのでしょう。しかし、隣で自分より苦しんでいる信者がいて、自分は彼らに祈りをささげることもしなかった。ここで矜持を保つことができなかったのでしょう。彼の矜持とは司祭であることと同時に基督と同じ運命にあっているという認識であり、これは彼の人生そのものであります。みずからのプライドすらも踏みにじられて彼の精神は動揺してしまいます。

 飢餓や疲弊、そして自己喪失、ここに及んでなお彼は基督にすがりたかったのではないでしょうか。神は沈黙し、司祭としての役目は果たせず人生すらも否定されすべてを失った彼の中で、基督への憧憬だけが残っていたのではないでしょうか。経典を重んじるか、基督の生き方を大事にするかの二択に迫られロドリコは後者を選んだのではないでしょうか。ロドリコは否定しましたが、私は基督ならば信者のために絵を踏んだと思います。いや、ロドリコにもそのことが分かっていたのでしょう。結局基督との同化に至ったという傲慢から抜け出した後でもやはり基督のように生きたいと思ったのではないかと考えます。そう考えると彼の行動は一貫しています。すなわち基督の生き方を踏襲することこそ彼の生き方であり、それが拭いがたく、あの場面で彼に指針を示したのだと思います。

 

トルーマンカポーティ『冷血』を読んで

 たったいまこの本を読んだわけだが、得られたのは読破したという達成感だけでした。というのもこの小説、600頁超に及ぶ上に行間はぎちぎち、文字は小さめ、そしてなにより無味乾燥な小説であったので読み進めるのに苦痛を強いられた。私は小説を読むことは歩く行為に似ていると考えている。エンターテイメント性の高い小説 (例えば私も大ファンの森見先生の小説)なら散歩と同じような気晴らし、爽快感を得ることができると思う。その例でいくと『冷血』は400m走を走らされている気分になる。一日50頁を超えたあたりで先を読み進めることが億劫になり、次の日に先延ばししてしまう。ゆえに読破するのに10日近くかかってしまったのである。

 

 この本を読み進めることが困難な理由はひとえに内容の無味乾燥さを上げることができる。ここで小説裏表紙のあらすじを引用してみる。

カンザス州の片田舎で起きた一家4人惨殺事件。被害者は皆ロープで縛られ、至近距離から散弾銃で射殺されていた。このあまりにも惨い犯行に、著者は5年余りの歳月を費やして綿密な取材を遂行。そして犯人2名が絞首刑に処せられるまでを見届けた。捜査の手法、犯罪者の心理、死刑制度の是非、そして取材者のモラル――。様々な物議をかもした、衝撃のノンフィクション・ノヴェル。

  ご覧のとおり一家惨殺事件のドキュメントという体裁を保っている。この事件は確かにむごたらしいものではあるが、この事件がきっかけで法改正がなされたとか、一般市民の何かに対する意識が変わったというものではない。カポーティが取り上げなければ事件の関係者を除いていずれ忘れ去られていたであろう。もし歴史の教科書風に取り上げるなら「裕農一家が殺人強盗にあい、その罪で二人の男が逮捕され死刑に処された。」といったところであろうか。

 だが、この本ではこの事件に直接かかわったもの、関係者の生涯から家族の生い立ちまでとことん追求されている。例えば容疑者のひとりであるヒコックはおおむね家族愛に恵まれた家庭で育ったことが記述されているし、相対をなすもう一方の容疑者のペリーは小さなころから家庭内暴力にさらされ、墜死、殺害、自殺など一家は不幸な目にあっていることも書かれている。被害者はもちろん、被害者と仲の良かった隣人、果ては調査官の生い立ちまで詳細に触れている。

 この過剰といっても過言でなさそうな記述、さらに(たぶん意図的であろうが)漠然とした書きっぷりのせいで600頁という膨大な量にに加え、砂漠を歩くような苦行を読者に強いる書物として形成されたのだろうと私は推察する。

 だが、このような無名で終わっていても不思議ではない事件でもそこにかかわる人がいる限り、一人ひとりのドラマがあることを感じさせてくれる。私がわざわざブログという形でしたため記述しようと思ったことはまさにそこなのである。さきほどから苦行という言葉を連発しているが、何人もの人間ドラマを記述してあるので苦行でしかるべきなのである。なぜならそれは彼らの人生の重さであるからだ。もともとカポーティはフィクション (虚構)作家である。彼の手腕をもってすればノンフィクションの中にフィクション(虚構)を織り交ぜることでより読みやすい、娯楽性を兼ね備えた小説を書くことができたであろう。だがその手法はとられず、この400mのトラックが完成したのである(もちろん私が気が付かないだけでレトリックの類がふんだんに使われていたであろうが、それは本書を読みやすくする意図はなかったであろう)。

 日本でも、毎年多くの事件が起きては、客観的事実だけを残し(おそらく判例集の片隅にちょろっと記述されるだけ)、関係者の血の温かみは忘却へと消えていく。いや、それは日本に限る話でも現代に限る話でもない。出来事とは因果の帰結であり、その結果には忘却された人間ドラマがある。今日すれ違う何百人の人にも人生があり、重みがある。私にその当たり前の事実を認識させてくれたのがこの本である。

 小説を息抜きのために読む人にはこの本をお勧めできない。どんでん返しを望む人にも同様だ。だが、それでも400m走を走りたいと思える人は休み休みでもいいから挑戦してみてほしい。