厚切りジェイソンが日本の四季に言及したことについて思うこと。

民族的な誇りのこびりついた人間には誇るに足る個人としての特性が不足しているのだ。…何一つ誇りとすべきもののない憐れむべき愚者は、たまたま自分の属する民族を誇りとするという最後の手段を命の綱と頼むのである(ショーペンハウアー

 

先日、タレントの厚切りジェイソンさんが日本の四季について怒りを爆発させている旨の記事を見た。

www.huffingtonpost.jp

 

 彼の主張をまとめると

  • 四季は日本以外の国にも存在するのに日本だけ特別視するのはおかしい
  • さらにそれに同調しないと非難される空気が形成され不快である

 ということだ。

 二点目は置いておくとして(こういう国民性なんですすいませんとしかいえない気がする)、今日は一点目について考えてみたい。確かに彼の母国であるアメリカにも季節の移り変わりがあるだろう。自然の壮大さという点においては日本は足元にも及ばない。先日友人を近所の滝に連れて行った。その滝は地元ではちょっとした名所であるが、迫力という点では大したことはない。日本らしい自然の中にうまく溶け込んだ趣のある滝である。また、間の悪いことにその友人はアメリカ旅行帰りでナイアガラの滝を観光したばかりであって、私が滝を紹介すると伝えていたので大変拍子抜けした様子であった。

 日本の四季とアメリカの四季は同じであろうか。例えば春といえば桜だが、アメリカでも桜を見ることができる。しかし、アメリカのそれと日本のそれとでは趣が違うだろう。自由の女神を背景にみる桜(そんなものがあるかはともかく)と吉野山の桜を想像してみてほしい。結局日本の桜の良さというのは日本という風土に溶け込んでいて初めて感じられることが分かる。「アメリカの風土に溶け込んだ桜は悪いのか」という反論があるかもしれないがそうではない。日本の風土に溶け込んだ桜に趣を感じられるのは日本人、いや、皮膚感覚で日本文化を味わっているものだけなのである。元来日本人は日本の四季の移り変わりに敏感な人種であった。それを和歌、文学、芸術の形で表現することに歓びを覚える種族であった。そのような感性が直接教えられることなく、まるで遺伝子に刻まれているかのように今の私たちに受け継がれている。だから日本の四季がいいというのは、春はあけぼの、夏は夜、秋は夕暮れ、冬はつとめて(早朝)に心の底からをかしを感じる人でないとわからないことなのである。先ほど春は桜といったが、春から即座に桜を連想できるのも日本人の感性によるものだ。

 つまり、日本の四季がよいという主張は、長い歴史より受け継がれてきた日本人の感性から見て、日本に溶け込んだ自然の移り変わりが趣深いということに他ならないのである。四季そのものではなくそれををかしと思える感性が誇らしいのである。だからアメリカにも四季があるというのは的外れと言わざるを得ない。このような事情を厚切りさん(というより外国人)はご存知ではないからこのように説明するのがいいと思う。いや、説明してほしかった。

 厚切りさんといえば、だいぶ前「王に点を付けると玉(ball)になるのホワイジャパニーズピーポー!!」的なことをいっていて周りのタレントも苦笑いしていた場面をテレビでみた。苦笑いで終わるのではなく一言、「玉はもともと宝を意味してたんだよ。丸い水晶は貴重だったからね。宝はウの部分が家を、玉の部分がそういった貴重なものを意味してるんだよ」といってあげればよかったのにと残念な気持ちがした。

 ナショナリズムはあまり好きではないが、日本の歴史、文化、そしてこのような感性は誇るべきものだと思う。しかし、ただ誇って終わらせるのではなく、異文化から来た人にその拠り所を教え、一緒に味わうことこそ誇らしい伝統を遺してくれた先祖に対するはなむけだと思う。

 ちなみに私はナイアガラへは行ったことはないが件の近所の滝は大好きである。特に紅葉を背景にみるそれは実にいい。

騒音問題

 私の住むアパートは道路に面しているのでかなりの騒音がする。車のエンジン音など茶飯事で、今この記事を書いている間にすら音が聞こえてくる。

 別に騒音自体には文句を言うほどのものではない。エンジン音も不快な音というわけではない。しかし、中には我慢できない騒音問題に遭遇する。特にうるさいのが以下に挙げる三種の雑音だ。

 まず、珍走団。何故か爆音を鳴らし通り過ぎていく。彼らは頭が悪いだけなので議論の余地もない。ただ、私のアパートは運が悪いことに比較的大きな交差点に接している上、信号の待ち時間もそこそこ長い。よって不快な音楽、マフラー音を私もその長さだけ耐えなければならない。珍走団らしく信号無視をしてくれればいいのだが、こういうルールは律儀に守るところがまた腹立たしい。余談であるが輩のかける音楽はクラブ系であることが非常に多い。

 彼等より凶悪なのが、警察のサイレンである。いやに警察のサイレン音が多いのである。最初は警察の方も大変だなくらいにしか思っていなかったが住み慣れるにつれてある事情が分かってきた。私のアパートに接している道路は立体交差点の出入り口でとても混みあっている。私の住むあたりは交通ルールが妙に厳しいのである。単に厳しいだけではなく直観に反するような標識が多く存在する。言ってしまえば交通違反を犯しやすい立地なのである。つまり、警察は点数稼ぎのために私のアパートの近くに待機しているのである。

 加えて彼らは大義名分が与えられているのでサイレンを鳴らすのに躊躇がない。どんなに深夜であろうがお構いなし。その上、上記の珍走団を取り締まる気配がない。弱者を狙い打って点数を稼ぐさま、近隣住民に無頓着なさまが私の神経を逆なでする。

 だが、上記よりはるかにタチの悪い奴らがいる。それは選挙カーの連中である。まずうるさい。スピーカーを使って安倍政権を批判する。彼らも声を張り上げるのに躊躇がない。なぜなら彼らの行動の裏には、無知蒙昧な市民を啓発するという重大な使命があるからである。声を張り上げてなんぼである。さらになまじ意味のある音声であるので気が散る。意識しようとせずとも発する雑音が脳に届いてしまう。一度TOEICの予想問題を解いてた時にこれをやられたことがあり、筆舌に尽くしがたい思いをした。

 安倍政権批判をする連中が特に耳障りなのは間違いないが、自民党とて例外ではない。市長選挙の際、市民の皆様のために尽くします、などという美辞麗句を並べるが、市民のみなさまのためを思うのであればまず騒音を止めるべきであろう。ぶっちゃけて言えばこんな地方の市長なんぞ誰がなっても構わないのだから、むしろ勉強の邪魔をされる方が長期的に損失がでる気がする。いや、そんなことはどうでもよろしい。私が言いたいのは、市民のためと言いつつ市民の生活を妨害されているという欺瞞、そして市民のためではなく結局は自分でしかないことに気が付かない愚鈍さ、いや、気が付いてもなお推し進める傲慢さに我慢がならないということである。

 ちなみに私がこのようなことを書こうと思ったのは、ただいま中島義道先生の著書を拝読しているからである。この人の本はたまに読みたくなる魅力がある。

そわか式幸福論

庄兵衛はただ漠然ばくぜんと、人の一生というような事を思ってみた。人は身に病があると、この病がなかったらと思う。その日その日の食がないと、食ってゆかれたらと思う。万一の時に備えるたくわえがないと、少しでもたくわえがあったらと思う。たくわえがあっても、またそのたくわえがもっと多かったらと思う。かくのごとくに先から先へと考えてみれば、人はどこまで行って踏み止まることができるものやらわからない。それを今目の前で踏み止まって見せてくれるのがこの喜助だと、庄兵衛は気がついた。(高瀬舟 

  最初にお断りしておくが私は偉い人間ではない。だから幸福論なんて偉そうに講釈垂れるにも戦々恐々の思いがする。事実私の幸福論を煎じ詰めれば妥協しろの一言で終わる。なのでそんなの負け惜しみだよとか幸福を婉曲している阿呆だなどの批判ももっともだと思うし反論もできない。それでも良ければ読み進めてください。私はこう考えることで気が楽になったので語っていこうと思う。

 まず、お金に絞って考えていく。多くのひとは自分の経済状況に満足していないと思う。これは当然で、なぜならお金の欲望に際限がないからである。日ごろはユニクロで満足できていたものが、少しグレードを上げるとユニクロのシルエットの粗が気になり始める。そうしてエスカレートして気が付いたら海外高級ブランドのものしか受け付けなくなる。食べ物でもそうである。小さなころは激安の食べ放題で満足できた焼肉でも、少しグレードを上げると以前の激安では満足できなくなる。私の場合イヤホンが特に顕著であった。中学生の頃は付属のイヤホンで満足していたのに扱えるお金の裁量が大きくなるにつれ4000円のものでしか満足できなくなり今では12,000円のイヤホンを使っている始末である。

 踏みとどまろうと思っても案外大変で、例えば他人がロレックスを持っていれば劣等感を感じてしまう。自分が属するコミュニティ内で満足できていても、モデルが着用している服が欲しくなる。

 経済状況から離れて身体的ケースを考えてみる。足がない人は足があればいいのにと思う。足があっても具合が悪ければ健常な足があればと思う。健常の足があってもスポーツ選手の足に憧れる。やはり際限がない。

 つまり私は不幸とは主観的に満足できない状態と定義する。お金がなくても幸福だという人もいる一方で、自転車でも買う如き感覚で戦闘機をお買いになる社長もいる。ろくに使いもしないであろう戦闘機を買う人間が現状に満足できているとは到底思えないのである。実際彼は戦闘機の周りでBBQをしていた。

 幸福は不幸のコインの表側であると考えればおのずと実像が見えてくる。すなわち幸福とは主観的に満足できている状態である。主観的というところがミソである。われわれは中世ヨーロッパ貴族よりよい暮らしを送っている。私たちは胡椒を湯水の如く使えるが彼らにとって香辛料は貴重であった。当然インターネットもない。しかし中世貴族の方が現代の大多数の人間より幸福であろう。幸福の基準は時代によっても異なるのである。

 幸福の定義から幸福になる方法が二つ導き出される。一つは満足度を高めることである。しかしこれは元も子もないだろう。金銭的に不幸であるならば頑張って稼げとしか言いようのない。

 二つ目は満足の基準を下げることである。私が強調したいのはこちらの方である。古代中国で老子は知足という言葉を使った。結局現状に対して足るを知ることが大事なのではないかと思う。しかし基準をあまりに下げすぎるのも健全ではないと思う。自分の無理のない程度で折り合いをつけていけばいいのではないかと思う。

 足るを知る。これこそ私が思う幸福に生きる秘訣である。

経済学とは何か~オイコノミアに為替の話が出てこない理由~

 毎年多くの高校生が経済学部へ入学してくるが、きっと彼らの胸中には「経済学とはどのような学問なんなんだろう!!」と期待が膨らんでいるに違いない。さて、四年後、多くの経済学部卒業生の胸中には「経済学部とはどのような学問だったのだろう」という思いが去来するに違いない。彼らが勉強をさぼっていたとかそういうことではなく、ここには理由がある。ここではその理由について整理していきたいと思う。

 まず、一般的に考えられている経済学と大学で学ぶ経済学には微妙なギャップが存在することが理由に挙げられる。あなたは経済学と聞いて何を思い浮かべるだろうか。たいていの人は「為替、円高、失業、景気、求人」などの言葉を上げるだろう。確かにこれらを研究することは立派な経済学だ。経済学の王道とも言ってよい。だが実は学問としての経済学のカバーする範囲は上記のものをはるかに凌駕するのである。上記の研究は基本的にはマクロ経済学に分類される。しかし、マクロ経済学の根底にはミクロ経済学の考え方が存在する。そしてミクロ経済学では人の行動を研究するのである。消費者の行動、生産者の行動、市場での行動、さらに生産消費に関わらない人々の行動をゲーム理論の枠組みで考察する。繰り返すが、人々の行動を研究する学問である。誤解を恐れずに言えば、世間一般に思われている経済学とは狭義の経済学であり、大学で勉強するのは広義の経済学である。だから、ギャップがあるというのは不正確で、一般的観念で言うところの経済学は一領域に過ぎないのである。この狭義の経済学の固定観念に囚われるあまり経済学の実像を見誤ってしまうというのが第一の理由だと思う。

 第二の理由も固定観念であるが、高校で習う公民と経済学とにギャップが存在することである。高校の社会と聞けば暗記のイメージがつきまとう。例えば何年にプラザ合意があってその結果どうなったのか、云々。しかし経済学ではそのような事象の暗記を強いられることは稀である(もちろんないというわけではないが)。では具体的に経済学では何をするかという話であるが、人々の行動を数値化したうえで数学という道具を拝借して疑問の余地を許さない論理によって真理に到達することが主な目的である。つまり、応用数学の一分野なのである。経済学とは数学(の一分野)なのである。もちろんこのようなことを入学当初知るわけもない新入生は最初の授業から肝を抜かれるのだと思う。

 最後に経済学の領域がかなりぼやけていることが理由に挙げられる。もちろんコアとなる部分は不変であるが、最近経済学の領域の広がりが著しい。近年の行動経済学の隆盛など好例である。さらに神経経済学など経済学の前に○○つければ大体経済学の俎上に乗ってしまう。おもしろい例を挙げると、シカの角の大きさをゲーム理論の枠組みで考察することもできる。シカの角の考察が経済学だといわれてもにわかに信じられないだろう。”為替”と”シカの角”、これらを包括しうるのが経済学である。領域が不鮮明なので枠でとらえることができない。私も十数冊経済学の教科書を読んできたがついぞ経済学に納得のいく定義を与えたものはなかった。

 ではどのように定義したらよいだろうか。ある研究者がゲーム理論を数理社会学であると言っているのをネットで目にしたことがある。数理社会学という定義が自分的に一番しっくり来た。

 ”学問の経済学”にも”ヤバい経済学”にも”オイコノミア”にもいわゆる経済論評みたいな内容ではないが経済学として成り立つのである。そして、こういった社会学的側面こそ経済学のおもしろいところでもある。経済学といわれても身構えることなく楽しさをあじわっていただけたらと思う。

英語の曖昧さ

 もし会話の内容に誤解が生じたとして、英米人はその原因を話者に求める。よくある対比だが、日本人は曖昧ににものを言い、英米人ははっきりとものを言うらしい。だが、言語の特性から言って日本語の方がはるかに詳細に物事を語ることができる。

 例えば人称の問題である。日本語の一人称には「私、僕、俺、わし、拙者」など多種多様であるが、英語には「I」しか存在しない(古英語までさかのぼればあるかもしれないが)。二人称に至っては単複同形で「you」しか存在しない。正直これはかなり致命的な問題だと思う。初めから単複同形だったのかといわれるとそういうわけではなく、単数形として「thou(汝)」という単語が存在した。消え去った理由としていくつかの説があるが、もっとも一般的なものとして、一人を指し示すのは失礼に当たるというフランス語の流行に飲まれたというものがある。私自身英語でプレゼンをするとき、youという単語を用いるのに苦慮した経験がある。そこでTEDなどをみていると代替として指さしてyouと発する場合がある。こちらの方がよほど失礼だと思うのだが…

 他に例を挙げるならひとつの言葉が持つ多義性であろうか。例えば「have」という単語をみてみる。中学英語的には対訳として「持つ」があてられるがこれば少し不正確である。「have」とは「近くにある」が原義である。なので「have」のみで「持つ、飼う、食べる、(感情を)抱く」などがある。食べるという意味でhaveが現在形にならないのはこういうからくりがあるのだ。この「have」の例からも英語がいかに曖昧かがお分かりいただけると思う。

 このように少なくとも日本語と比較してみるといかに英語が曖昧なものなのかが浮き彫りになる。冒頭に述べたように英米人は分かりやすい物言いを好み、誤解の原因は話者に帰する。気質と言語。この対比はなかなかおもしろいと思うがいかがだろうか。

沼男(スワンプマン)から探るアイデンティティの拠り所

 昨日の自分は果たして自分なのだろうか。人間は絶えず新陳代謝を繰り返す。古い組織は寿命を迎え、垢や排泄物として体外へ排出される。すると自分の身体は昨日とはわずかに異なるといえるのではないだろうか。昨日とはわずかに異なるが一昨日は?その前は?はたまた一年前は…?幼児の成長を見てみるとさらに顕著だ。子どもは数年の間に身長体重ともに数倍に膨れ上がる。例えばある幼児の写真と、その子の五年後の写真を見比べたときに同一人物であることは間違いないが、全く同一であるとはだれが言えるだろうか。

 さらに思考にも新陳代謝は発生する。新しい考えに触れることで自分の考えがかわることは誰しも経験することである。5年前の自分と比べて自分のいかなる主義主張も変化しなかったといいのける人はいないように思われる。記憶もそうだ。時が経つにつれ新たなことを覚え古いことを忘れてゆく。記憶も考え方も身体の構成要素も異なる過去の自分と今の自分は果たして同じものであるのか。

 アイデンティティの問題を考える際、”スワンプマン”という古典的な思考実験がある。Wikipediaから少し引用してみる。

ある男がハイキングに出かける。道中、この男は不運にも沼のそばで、突然 雷に打たれて死んでしまう。その時、もうひとつ別の雷が、すぐそばの沼へと落ちた。なんという偶然か、この落雷は沼の汚泥と化学反応を引き起こし、死んだ男と全く同一、同質形状の生成物を生み出してしまう。

この落雷によって生まれた新しい存在のことを、スワンプマン(沼男)と言う。スワンプマンは原子レベルで、死ぬ直前の男と全く同一の構造を呈しており、見かけも全く同一である。もちろん脳の状態(落雷によって死んだ男の生前の脳の状態)も完全なるコピーであることから、記憶も知識も全く同一であるように見える[1]。沼を後にしたスワンプマンは、死ぬ直前の男の姿でスタスタと街に帰っていく。そして死んだ男がかつて住んでいた部屋のドアを開け、死んだ男の家族に電話をし、死んだ男が読んでいた本の続きを読みふけりながら、眠りにつく。そして翌朝、死んだ男が通っていた職場へと出勤していく。

出典:スワンプマン - Wikipedia

 

  ここでスワンプマンは前の男と同一人物といえるだろうか。

 

 私は言えないと思う。別人だから。私はアイデンティティを担保するのは連続性だと思う。新陳代謝を通じて”私”は別の存在に変化し続けているが、それは少しずつ行われる。そこには連続性が存在するのである。スワンプマンの場合、連続性が途切れてしまっているのでもはや別人なのではないかと考えている。思考についても同様で、自分の考え方が他人に似通っていようとそこに至るプロセスさえきっちりしていれば思考の同一性は保たれると考える。一貫性より連続性を大事に生きてみてはどうでしょうか。

身体の外延性

 今日スマホがフリーズしてしまった。残るは復旧しか手がないらしかったので復旧作業に移ったわけだが復旧作業中に再起動が起きて難を逃れた。

 以前もスマホの電源を入れることができなくなり、新品と交換しなければならない機会があったが私がその時感じたのは不便さと喪失感であった。不便さというのは無論、SNSの再登録や、自分に合ったカスタマイズのやり直し、果ては再登録に必要なパスワードの再取得などめんどくさいことこの上なかったことを覚えている。スマホを使えない期間も別の意味で不便であった。ただ、それ以上に喪失感を感じた。まず写真をたくさん保存していたのでその写真をもう二度とみれなくなったという事実がさみしかったし、自分なりにこだわりをもって装飾していたスマホがなくなったことにさみしさを覚えた。

 スマホが私の一部だったのではないかとふと思ったのを覚えている。写真保存は外付けの記憶装置とも見ることができるし、インターネットはネットの海を渡るための足でもある。逆に生身の手足はどうであろうか。技術的には外科手術によって手足を取り外すことができるし、義足義手という形で取り付けることだって可能である。脳が望む結果の実現に必要な具を道具だとすると手足も道具である。また、手足も取り外してしまえば肉塊である。手足とスマホは道具としての観点からは本質的な違いは存在しないのではないだろうか。

 幻肢という現象がある。事故などで手足を失ってもなお存在すると錯覚してしまう神経症のことであるが、これは喪失感が作用した例ではないかと考える。するとこの手足がなくなったことの喪失感と私がスマホを失ったことで受けた喪失感(あるいはさみしさ)は本質的に同じものだと思う。不便さも同様である。程度は違えど、当たり前のようにあったものが突然なくなったことで不便に感じるという意味で手足の喪失もスマホの喪失も特に違いがない。するとスマホも触覚がないだけで体の一部ではないだろうか。大きな違いは代替が簡単に用意できる点だと思うが。ともあれ道具が体に取り込まれるという事実はとても興味深いように感じられる。